無内包の現実性

たまには普段読まないジャンルのものを…ということで『存在と時間 哲学探究1』を読み終えた。

「なぜ、この〈私〉だけが現実なのか」から議論を出発させているが、主観的な唯一性の感覚を、単なる心理現象ではなく、世界の構造に関わる根源的で哲学的な謎であると位置づけている。他の分野では論点先取と言われるものであり、本来は現実とはなにか、私とはなにか、といった前提そのものを検証する必要があるが、個人的な体験から哲学をはじめることは珍しくない。先述の反証可能性に繋がる議論は不毛になることが多く(反証可能性も万能ではないため)ここでは取り上げない。実際、著者は哲学を客観的な学問たらんとすると述べている。

一部ではこの本が難解とされているが、著者が提示する根源的な「驚き」を読者が共有できなければ、その後の精緻な論理展開が無駄になってしまうからかもしれない。

本書の核心は、〈私〉という存在が持つ「無内包の現実性」の分析にある。「私が安倍晋三になってもなったという変化は起きない」という思考実験がそれに続いており、〈私〉が持つ性質や記憶といった「内包」が問題なのではなく、ただ「現実である」という、いかなる性質にも還元できない事実そのものが問題であるという主張である。客観的な世界の中にある一つの属性ではなく、世界そのものがそこから開ける原点、著者の言葉を借りればカント的な「物自体」としての〈私〉を意味しており、専門外の私でも面白みがわかる。

この「物自体」としての〈私〉は、「第一基準」(現実に感じ、動かせる唯一の存在であること)によって捉えられる。それに対し、私たちが通常「私」の同一性を保証すると考えている記憶や心理の連続性は「第二基準」に過ぎない。著者はパーフィットの分裂実験などを通して、この二つの基準が必ずしも一致しない可能性を提示する。「つながっているのに私ではない」存在がありうると分析されている点から、自己同一性という概念がまだ発展途上であることを示しており、一定納得した。

過去も未来も、その時点においては「現在」だったはずなのに、なぜ「この今」だけが絶対的な現実性を持つのかと問い直すことで、〈私〉の問題が単なる独我論的な問いではなく、時間という、より普遍的な存在の謎と地続きであると解釈ができる。ただしそういった同型であること以上に、〈私〉は(通常)動かないが、〈今〉は絶えず動くことから、後半ではマクタガート論へと議論が進んでいる。端的な現在と動く現在の矛盾については、繫がりの原理や語りの原理といった二つのカント的原理に解を見出している。私なりの理解を述べると、記憶の連続性から〈私〉は特定の個人に固着させられ、安倍晋三への移動は不可能になるが、語りの原理では累進構造という階層モデルから端的な〈私〉が「あなた」や「彼」の視点からも捉えられる一般的な「私」へと相対化され、コミュニケーションが可能になる。この二つの原理が働くことで、本来は語り得ないはずの絶対的な〈私〉と〈今〉が、矛盾しつつも客観的な時空間に位置づけられていると言える。

(話は変わるが)著者は平易な語り口を心がけているものの、その議論の背後には、デカルトからカント、ヘーゲル、マクタガート、ウィトゲンシュタインに至る西洋哲学史の前提知識を必要としており、例えば物自体や超越論的統覚、存在論的証明、A系列・B系列といった概念は、単なる用語としてではなく、哲学史や文脈の中で知って初めて、その射程と重みが理解できる。概念に馴染みのない読者にとっては、一つ一つの論理は追えても、なぜ著者がその特定の概念をその場所で用いるのかを読み取るのは簡単ではなく、専門性の壁によってこうした知的探究が隔てられているのは勿体ない。