Lukianoff & HaidtのThe Coddling of the American Mindを読んだ。全体として、アメリカの大学で広がっている安全イズム(safetyism)の文化を批判する本で、認知行動療法の知見を軸に「3つの大いなるエセ真理」を分析している。面白い本だが、ここでは本書全体ではなく、第11章で展開される正義の心理学的分析に絞ってメモを残しておきたい。正義についてこういう整理の仕方があるのかと思ったので。
直感的正義の2つの成分
著者らは「社会正義」という語の曖昧さを解きほぐすために、まず心理学の研究から正義の直感がどう構成されているかを示す。人が日常的に「公平だ」「不公平だ」と感じるとき、その判断には2種類の正義が含まれているという。
1つ目が分配的正義で、「人は自分に値するものを手に入れるべきだ」という感覚。これを定式化したのがエクイティ理論で、各人の投入量(労働時間、能力、貢献など)に対する報酬(給与、特権など)の割合が当事者間で等しいとき、人はそれを「公平」と認識する。
2つ目が手続き的正義で、物事が決められるプロセスが公正かつ信頼に足るものかどうかについての感覚。社会心理学者のトム・タイラーの研究によれば、人は決定の結果が自分に不利であっても、そこに至るプロセスが公正だと認識できれば受け容れやすい。逆に、結果がどれほど自分に有利でも、プロセスが不透明だったり、意思決定者に偏りがあると感じれば、不満を抱く。
著者らはこの2つを合わせて「直感的正義」と呼ぶ。
書いてみると当たり前のことしか言っていないように見えるが、この枠組みの価値は分析道具としての切れ味にある。「それは不公平だ」という主張が飛び交う場面で、その不公平さが分配の問題なのか手続きの問題なのかを切り分けられると、議論の噛み合わなさの原因が見えてくる。たとえば、結果の数値が不均等であることを問題視する人と、決定プロセスに偏りがあることを問題視する人は、同じ「不公平」という言葉を使っていても、まったく別の主張をしている。当たり前の区別を明示的に持っておくことで、そういう混同に気づける。
2種類の社会正義
直感的正義の枠組みを使って、著者らは社会正義を2つの型に分類する。
均衡的手続き的社会正義(proportional-procedural social justice)は、機会均等の障害を取り除き、すべての人が尊厳を持って扱われることを目指す。公民権運動がその典型で、ジム・クロウ法による手続き的正義の侵害が分配的正義の侵害を直に生んでいた構造を是正する闘いだった。この型の社会正義は直感的正義と完全に整合する。
もう1つが結果の平等を目指す社会正義で、集団ごとの結果が人口比を反映しているべきだとする立場。こちらは、投入量の差異にかかわらず結果の平等を要求するため、直感的正義の感覚と衝突しうる。
タイトルナインの事例が面白い
この2つの型の差異を鮮明にするのが、著者の1人ハイトが在籍していたバージニア大学(UVA)のボート部の話だ。
タイトルナイン(教育改正法第9編)はもともと、連邦助成を受ける大学が教育機会について女性を差別することを禁じたものだった。1979年の指針では、奨学金は「運動競技プログラムに参加している男子と女子の数に比例して提供される」とされ、スポーツ参加への関心という投入量と比例した結果を求めていた。ここまでは均衡的手続き的社会正義の範囲内にある。
ところが1996年以降、大学に圧力がかかり始め、スポーツ参加者の男女比が全学生の男女比を反映すべきという基準が事実上の標準となった。すると、男子と女子でスポーツへの関心の度合いが異なるにもかかわらず(研究によれば、この差異は文化を超えて存在し、学校外の自由な場面でより大きくなる)、結果の数値を合わせなければならなくなる。
UVAでは、女子ボートチームが大学代表に昇格し全経費が大学負担となったのに対して、男子ボート部は大学のクラブとしてすら認められず、メンバーは年間1000ドル以上の会費を払い、「ボート選手レンタルサービス」で校庭の手入れを請け負って資金を集めていた。同じボートを漕ぐ行為に対して、性別によって投入量と報酬の割合がまったく異なっている。
エクイティ理論の方程式に当てはめると、この状態は分配的正義を明らかに侵害している。もちろん大学スポーツ全体で見れば男子アメフトに莫大な資金が投じられており、全体としての不均衡を是正する必要があるという主張は理解できるが、それをボートという個別の競技に携わっている個人に負わせることが「公平」かどうかは、別の問題だ。
相関と因果を区別すること
著者らの議論でもう1つ重要なのは、結果の格差(outcome gap)と不正義の因果関係についてだ。
ある職種で特定の集団が少ないという事実は、差別の存在を示唆するかもしれないが、それだけでは証明にならない。社会科学の基本として、相関は因果を意味しない。AとBに関連があるように見えても、AがBを引き起こしたのか、BがAを引き起こしたのか、あるいは第3の変数CがAとBの両方を引き起こしているのか、検討する必要がある。
著者らは「結果の格差」が見つかったとき、それを体系的不正義の直接的な証拠として扱う風潮を問題視する。もちろん格差が差別に起因している場合は実際にあるが、別の原因を挙げること自体がタブーとされる空気があると、コミュニティは問題を正しく理解する能力を失う。供給ルートの出口だけでなく入り口にも目を向け、応募者自体にずれがないか、選択の差異がないかを検討しなければ、的外れな介入が行われかねない。
考えたこと
正義についてここまで解像度高く整理されたものを読んだのは初めてで、特にエクイティ理論の枠組みは明快だと感じた。投入量と報酬の割合が当事者間で等しいときに公平と感じるというのは、日常の直感とよく合う。
結果の平等を目指す立場と機会の平等を目指す立場の対立は、おそらく多くの政治的議論の根底にあるのだろう。ロールズの『正義論』は未読なので(淡野安太郎の本で名前は見たが)、そちらも読んでみたい。ロールズの「無知のヴェール」の思考実験は、手続き的正義を哲学的に基礎づける試みとしても読めるのではないかと思った。
- Lukianoff, G. & Haidt, J. (2018). The Coddling of the American Mind: How Good Intentions and Bad Ideas Are Setting Up a Generation for Failure. Penguin Press.