「論理的に考える」は考えることではない

論理というのは、前提の意味するところを引き出してくる作業のことである。「哺乳類は肺で呼吸する」「イルカは哺乳類だ」という前提があれば、「イルカは肺で呼吸する」は自動的に出てくる。前提を正確に読めば結論はそこに書いてあるのだから、ここに考える余地はない。どれほど長く複雑な推論であっても、前提から結論への道が一本道であるかぎり、それは計算と同じで、考えているのではなく処理しているだけである。

問題なのは、できあがった解答を見ると論理的な推論がきれいに並んでいるので、あたかも論理的に考えた結果そこにたどり着いたように見えてしまうことである。実際に起きていたのはその逆で、膨大な論理的帰結のなかからどれを使うかを選び取る作業がまずあって、選び取ったものを事後的に論理の順番で並べ直しただけである。証明の途中で「この補題を使えば通りそうだ」と気づくのは論理ではなく観察であり、その補題が使えそうだという判断も論理ではない。論理が始まるのはそのあとで、補題から帰結を引き出す段階になってはじめて論理が働く。

つまり、「論理的思考力」として普段評価されているものの大部分は、論理の部分ではなく、その手前にある選択の部分にある。どの前提に注目するか、どの帰結を追うか、どこで見切りをつけるか。これは論理の役目ではなく、問題に対する感覚の働きであって、鍛えるべきはそちらのほうである。論理は素材にすぎない。