他者の行動は感情の刺激にはなるが、原因にはならない。同じ相手の同じ行動に対して、自分の状態次第でまったく異なる感情が生じるのだから、感情の原因は相手の行動ではなく自分の欲求のほうにある。約束に遅れた相手に対して、大切にされたければ傷つくし、ひとりの時間が欲しければ遅刻はありがたい。「あなたがいるから幸せ」は、正確には「あなたがいることで、わたしのつながりへの欲求が満たされている」の省略形であって、幸福感の源泉は相手ではなく自分の側にある。
この区別を受け入れると、「こんなに気持ちが動くのはこの人だけだ」という体験の意味が変わってくる。感情の振れ幅が大きいことを、関係の深さや相性の良さの証拠として解釈しがちだが、感情が強く動いているのは、自分のなかの満たされていない欲求が強く刺激されているということでしかない。承認欲求が強い人が自分を強く肯定してくれる相手に出会えば、肯定されているあいだは強烈な幸福感があり、少しでも態度が変わると強烈な不安が来る。この振れ幅を「この人が特別だからだ」と読み替えてしまうが、実際に起きているのは自分の欠乏の急所を突かれているということであって、関係の質とは無関係である。飢えているときには何を食べてもおいしいのと同じで、欲求が強く満たされていないほど、それを満たしてくれる相手への感情は激しくなる。感情の強度は欲求の深さの指標であって、関係の健全さの指標ではない。「こんなに好きになったのは初めて」は、この人が特別にすばらしいのではなく、自分のなかにそれだけ深い欠乏があるということを示している可能性がある。
ただし、強い感情がすべて欠乏から来るわけではない。十分に満たされている人が、相手の卓越さに触れて深く感動するということは実際にある。これは飢えを埋めているのではなく、美や成長への欲求が活性化されているということであって、欠乏とは別の動き方をしている。欲求には、足りないものを埋める方向のものと、すでにあるものがさらに刺激される方向のものがある。前者の場合に感情の強度を関係の質と取り違える危険が高いのであって、後者まで同じ構図で説明するつもりはない。
一方で、自分が相手との関係のなかで何を欲求しているのかは、感情よりもはるかに安定している。つながりが欲しい、理解されたい、安心したい、といった欲求は、相手が誰であっても、気分がどうであっても、そう簡単には変わらない。感情は天候のように変動するが、欲求のほうを基盤にすれば、感情が凪いでいる日でも関係を続ける理由がある。「この人といるとき、自分の何が満たされているのか」を自覚していれば、感情が落ち着いたことを「冷めた」と取り違えずにすむ。天候に賭けるのか、地形を見るのか、という違いだと思っている。
このとき、欲求が抽象的なままだと「同じ欲求を満たしてくれるなら誰でもいいのではないか」という話になりそうだが、実際にはそうならない。関係が続くなかで、欲求のほうが特殊化していくからである。最初は「理解されたい」という一般的な欲求だったものが、この人の、この角度からの理解でなければ届かない、という形に変わっていく。関係のなかで相手に固有の欲求が事後的に生まれるので、汎用的なニーズを誰が埋めてもいいという構図にはならない。