自衛意識が連帯を生むメカニズム
人間の集団が最も強烈に連帯するのは、共通の目標を掲げたときではなく、自分たちが攻撃されている、あるいはされかけていると感じたときです。ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングは、ニュルンベルク裁判中の心理学者ギルバートとのインタビューで、戦争を起こすことはそれほど難しくないと述べています(Gustave M. Gilbert『Nuremberg Diary』)。続けて、国民に対して「我々は攻撃されかけている」と危機感を煽り、平和主義者には愛国心が欠けていると非難すれば、どの国でも同じように機能すると言っています。
この構造は、国家規模の戦争に限られた話ではありません。SNS上のコミュニティ、政治運動、消費者集団、あらゆるスケールの集団において、自衛意識こそが連帯の最も強力な原動力になっています。
情報は感情に変わり、感情は物語になる
ある集団が視野をある程度共有している状態(たとえば同じ対象を支持している、同じ信条を持っている、同じ属性で括られている)にあるとき、投下された一つの情報は、ただの事実としてではなく、感情を伴って共有されます。
コロナ禍でのトイレットペーパーの買い占めがわかりやすい例ですね。「今後トイレットペーパーが手に入りづらくなるかもしれない」という真偽不明の情報は、すぐに「物資不足で生活が立ち行かなくなるかもしれない」という不穏な物語として共有・拡散され、日本中で大行列が生まれました。関東大震災の直後に外国人が井戸に毒を入れたという情報が出回ったときも、リーマンショックで銀行から預金を引き出せなくなるかもしれないという情報の拡散がその後の破綻の引き金の一つとなったときも、メカニズムとしては同じことが起きています。
つまり、情報はまず感情に変換されます。そして感情は、人間の語りのなかで拡散されるうちに、物語に化けます。物語はさらに集団内の個々人に「自分ごと化」を促し、連帯を加速させていきます。
不穏な情報ほど強い物語になる
ここで重要なのは、情報の内容が不穏であるほど、つまり自衛意識を刺激するものであるほど、生成される物語の強度が高くなるという点です。
ポジティブな情報、たとえば「我々は順調だ」「成長している」といったものも集団を結束させることはありますが、その結束には持続性がありません。順調であることに安心した個人は、やがて自分自身の関心事に戻っていくからです。一方で、「我々は脅かされている」「このままでは存続が危うい」という情報は、個人の関心事を後回しにさせ、集団への帰属意識を急激に高めます。
歴史的に見ても、最も強固な集団連帯は常に、外部からの脅威、あるいは脅威の知覚によって生まれています。この「知覚」という部分が肝要で、脅威が実在するかどうかは実はあまり重要ではありません。集団内で「脅威である」という解釈が共有され、物語として流通し始めた時点で、連帯は成立します。
視野狭窄と自衛意識の相乗効果
視野がある程度狭まっている集団においては、この効果がさらに増幅されます。
視野が狭まるとは、ある特定の対象や信条に対して深く没入している状態のことです。その状態にある人間は、外部からの情報を「その対象にとって有利か不利か」という二項対立的な枠組みで捉える傾向が強まります。結果として、本来は中立的な情報であっても脅威として解釈されやすくなり、自衛意識はさらに高まります。
たとえば、ある集団の外部にいる誰かが何気なく発した批評が、集団内部では「我々への攻撃」として受け止められ、反論・通報・排除の連鎖が始まる、といった現象はSNS上で日常的に観察できます。これは、視野の狭窄によって自衛意識の発動閾値が下がっていることの表れです。
そして自衛意識が発動すると、集団は「我々は攻撃されている」という物語のもとでさらに連帯を深め、その連帯がまた個々の視野を狭めるという正のフィードバックループが形成されます。
外部からの否定が連帯を強化する
この構造においてもう一つ注目すべきなのは、外部からの否定や批判が、集団の瓦解ではなく強化に繋がるという逆説的な現象です。
集団の主張が外部から嘲笑されたり否定されたりすると、集団内部では「やはり我々は攻撃されている」「これだけ反発があるということは、我々が真実に近づいている証拠だ」という解釈が生まれます。批判されればされるほど信念が強固になるというのは、一見不合理に見えますが、自衛意識を基盤とした連帯の構造を理解すれば必然的な帰結です。
この現象は、いわゆる陰謀論的な集団に限らず、政治的な運動、消費者コミュニティ、宗教団体、あるいは単に趣味で繋がった集団においても等しく観察されます。共通しているのは、「我々は不当に扱われている」という自衛意識が集団のアイデンティティの核に据えられているという点です。
自衛意識の操作可能性
自衛意識が連帯の最大の原動力であるならば、それを意図的に操作することもまた可能だということになります。
実際に、選挙運動においてはこの手法が広く用いられています。「このままでは我々の生活は守れない」「既得権益層が我々の権利を奪おうとしている」といった語りは、支持者の自衛意識を刺激し、投票行動や布教活動を促進します。SNSを活用した切り抜き動画の戦略的な投下が効果を上げた近年の選挙事例は、情報をどのタイミングでどのような形式で差し出せば支持者の自衛意識が最大化するかについて、かなり精緻な分析が行われていたことを示唆しています。
マーケティングの文脈でも同様で、「期間限定」「残りわずか」「今だけ」といった訴求は、消費者の「手に入れられなくなるかもしれない」という自衛意識を刺激しています。あるいは、競合との数値比較を意図的に開示することで、「このままでは負ける」「我々のコミュニティが危うい」という危機感を醸成し、消費行動を加速させるということも行われています。
ここで問われるべきは、こうした操作が倫理的に許容されるかどうかという問題ですが、それ以前に、こうした操作がそもそも可能であるという事実自体を認識しておくことが重要だと思います。自衛意識は人間の最も原始的な感情の一つであり、だからこそ操作に対して脆弱なのです。
連帯の中にいる個人
集団が自衛意識によって強固に連帯しているとき、その中にいる個人はどのような状態にあるのでしょうか。
おそらく、充実しているのだと思います。
やるべきことが明確で、仲間がいて、共通の敵(あるいは敵と知覚されている何か)が存在する。この三条件が揃ったとき、人間は自分というリソースを余すところなく注ぎ込むことができます。何に時間を使えばいいのかわからない、誰とも繋がっていない、自分の人生にこれといった目的がない。そういう空白が、自衛意識に基づく連帯によって一気に埋められるのです。
問題は、その充実感が、連帯の外部から見たときにどう映るかということではありません。「あの人たちはおかしい」と外部が言ったところで、それは先述の通り、連帯をさらに強化する燃料にしかなりません。
問題は、その連帯が解けたとき、個人の手元に何が残るかということです。自衛意識によって焚き付けられた連帯は、脅威の知覚が薄れたとき、あるいは物語の説得力が失われたとき、急速に瓦解します。そのとき個人は、注ぎ込んだ時間と感情と資金の総量に見合うだけのものを本当に手にしているのでしょうか。
その問いに対する答えは、きっと人それぞれだとしか言いようがありません。ただ、自分が今まさに自衛意識によって連帯の渦中にいるのかどうかを確認する方法は一つだけあります。
「我々は攻撃されている」という前提を一旦外してみたとき、自分がやっていることの意味がどれだけ変わるか、試してみることです。